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フランク・ロイド・ライト
1867 - 1959
近代建築の四大巨匠の1人
ウィスコンシン州立大学の土木科を1887年に中退、叔父ジェンキンの紹介によりシカゴにある建築家ライマン・シルスビーの事務所で働いたのち、アドラー=サリヴァン事務所へと移った。シカゴ派の代表的な建築家だったルイス・サリヴァンに才能を見出され、事務所における1888年以降のほとんどの住宅の設計を行った。ライト自身もサリヴァンをLieber Meister (愛する師匠)と呼んで尊敬し、生涯にわたりその影響を肯定し続けた。
1893年事務所での設計業務とは別にアルバイトで住宅設計を行っていたことがトラブルとなりアドラー=サリヴァン事務所を辞め、独立して事務所を構えた。 1894年の『ウィンズロー邸』1906年の『ロビー邸』など、1893年から1910年までの17年間に計画案も含め200件近い建築の設計を行い、プレイリースタイル(草原様式 Prairie Style)の作品で知られるようになった。プレイリースタイルの特徴は、当時シカゴ周辺の住宅にあった屋根裏・地下室を廃し建物の高さを抑えたこと、水平線を強調した佇まい、部屋同士を完全に区切ることなく一つの空間として緩やかにつないだことなどがあげられる。 高い評価を確立したライトだったが、あるスキャンダルから長い低迷期を迎えてしまう。1904年に竣工した『チェニー邸』のクライアントの妻チェニー夫人と不倫である。ライトは1909年事務所を閉じ、妻と子供を捨てニューヨークとヨーロッパへ駆け落ちしてしまう。1911年帰国するものの、名声は地に落ち、設計依頼はほとんど無かった。 そんな中、母親の勧めでライトは自邸『タリアセン(ウエールズ語で「輝ける額、凛々しき眉」の意味で吟詠詩にでてくる聡明な騎士の名)』をウィスコンシン州スプリング・グリーンに建てる。スプリンググリーンはライトの祖父の代に移住し、ライトが19歳の時母親の家族のために礼拝堂を設計した土地だった。 その後、少しずつ設計依頼が増えてきた頃、タリアセンの使用人が突如発狂し建物に放火、チェニー夫人と2人の子供、及び弟子達を惨殺。現場に出ていたライトは難を逃れたが大きな痛手を受け、再び大きなスキャンダルとなった。そのような中で依頼が来たのが日本の『帝国ホテル』の設計だった。 大戦後、270のプロジェクトに関わり、『プライスタワー』『スカイスクレーパー』『グッゲンハイム美術館』「マリン郡市民ホール」等の代表作を生み出した。 そのスタイルには変遷もあり、一時はマヤの装飾を取り入れたことがあるが、基本的にはモダニズムの流れをくみ、幾何学的な装飾と流れるような空間構成が特徴。浮世絵の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けている。 孫娘にアカデミー賞女優のアン・バクスターがいる。 |
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